昭和44年03月04日 朝の御理解



 御理解 第29節
 「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」

 梅の花と桜の花を対照的に、それぞれの性情というか性質というか、梅と桜の表現をもって教えて下さってありますけども、まぁこれを別の言葉で表現するとどういうことになるだろうか。立派な信心と有り難い信心というような風になるんじゃないでしょうか。立派な信心。または有り難い信心。そのどちらかをいうたら合楽の信心は、そのう立派な信心ではないけれども、有り難い信心だと思うですね。ですからその有り難いという信心が立派な信心になっていくところに。
 合楽の人達の信心修行というか、これからの懸けるというならそこんところへ、懸けていくいわゆる精進していく信心が、いよいよ必要になってくるんじゃないでしょうか。まぁいうならば桜の花の雰囲気を持った人が多いということです。これはもう私の信心がそうですね。誰でもこりゃ一応に桜の花のような、まぁ華やかなね雰囲気とか、または華やかなおかげというのを嫌う人はありません。みんなもやはりそれにむしろ憧れているくらい。まぁいうならばまだ年端もいかんというか。
 長い教会としての歴史を持たない合楽が、現在のようなおかげを受けておる。それはまぁある意味合いにおいて、何十年経ってもまだ大した御比礼を受けてないという人達から見ると、ある意味合では私しゃ憧れだと思うですね。それがそのまぁいうなら講じてそのう、羨望の的になるということすらなりかねないと思うんですね。人の羨むようなおかげを受けておる事は事実ですねこれは。それはねやはりねずっとこう梅山一面に咲いた桜の花のような感じのおかげだからなんです。
 そういうおかげはどっから生まれて来るかというと、やっぱ有り難いに伴うておる訳なんですね。有り難い。合楽の信心は有り難いという風に、けれども決して立派ではない。そこに私共の欠けておるいわゆる、梅の花の信心が求められるところじゃなかろうかとこう思うね。何故ってここにもたててありますように、桜の花は早う散るとこう仰るね。梅の花はね、辛抱しておるから長う散らんと。合楽にはそういう人がだから多いでしょうが。ぱぁっとそれこそ華やかなそのう信心をしてですね。
 本当に華やかなおかげを受けて、そしてそのうぱっと散っていく人がある。随分ありましたよね。椛目合楽を通して様々な信心、良い信心だ素晴らしい信心だと言われながら散っていく人。だからそういう人達に梅の花の信心が伴うておったら、いうなら鬼に金棒ね、いわゆる有り難い信心に立派な信心も伴うたら、大した事であったろうとこう、ところがそのう実を言うたらそのう立派な信心の時はもう、時に立派な信心を身に付けていこうということは、私どもは非常にやはり難しいことです。
 なぜかと言うと私共に欠けておるもの無いものでしょ。それこそ泣く泣く辛抱しいしいというように、辛抱しい抜かない抜ける信心。だからまぁいうならばそのうまぁ辛抱梅の花的信心を持っておる人が、有り難いという信心になっていく事も又大変難しい。だからどちらがどちらであっても、いかに信心辛抱、辛抱がこうしておれば物事整わんことないと仰るけれどもです、整うまでのおかげというものが実にその難しい。そこにその立派な信心から有り難いという信心になっていくという。
 そこからおかげを受けられるのでありますから、立派だけではおかげは受けられん。立派な信心に有り難いという信心が伴うて始めていわゆるおかげと、神様はやはり立派な信心さえしときゃいいという訳にはいかん。生きておる間はいわゆるこの世におる間、やはりそのおかげに触れていかねば、おかげを頂いていかなければ、私共人間の幸せはないのですからね。かというてなら有り難いという桜の花の信心だけでは、またこれはいわゆる散りやすい。
 その点梅の花的信心いわゆる、立派な信心には長う苦労しておるから散らん。どんな事があっても散らん。どんな事があってもおかげは受けんでも辛抱している。20年、30年、40年とやはり辛抱しておる人はいくらもありますよね。けれどもおかげは受けられない。あのうテレビであの先日あのうなんちゅうたですかねぇあれは。のど自慢のような事があっていましたが。あのう家族でみたあのうこう出ているのがありましたが、兄弟3人で民謡を歌っておられました。
 もう私は見ながら本当に上手だなぁと思いましたが、もう私もそう思うとったらそれを批評するある先生方もそれをいっておりました。もう歌もうまかったけれどもね、その人の持っているそのう民謡的雰囲気というものがね、が素晴らしかったと言うてそのう褒めておりました。民謡なら民謡こりゃもうこういうものですから、こうの中ではみが入ってきませんが、なら声がどんなに綺麗であってもですね、どんなに立派にいわば歌いこなしても、やはり民謡の雰囲気を持たなければいけないという訳なんです。
 今日私が言うておる事もそれなんです。どんなにね立派な信心をしてもです、有り難い雰囲気を持たなければ駄目だ。先日ある先生の話を頂いた。もう実に立派なお話であった。ところがねその有り難いという雰囲気を持たれないんです。立派なお話なんだけれども。もう一分一厘隙のないお話なんだけれどね、言うことだけは十分に言い回してあるけれどもです、有り難いという雰囲気を持ちませんから、いくらはぁ立派だなと思うてもね、おかげが受けられないんです。
 私共の話はお話しは下手である。内容は貧しいけれどもなんとはなしに有り難い雰囲気を持っておる。その証拠にゃお話を頂き頂きおかげを受けておる。だからお話でも立派なお話と有り難いお話は違う。だから私共は立派なそのお話もこなせるようにならなければならないと同時にね、それをやはり有り難いものにして行く為には、どうしても自らの信心がです、両方足ろうた信心を願いたい、又はそれを焦点としてですね、信心の稽古をしていかなければいけません。
 そこで私の信心を申しますならですね、確かに私の信心は桜の花的な信心。ところがですなら段々桜の花の信心が、おかげを頂いてです欠けておった梅の花の信心が、いわば段々伴うてきたというところに、値打ちがあるような信心でもないですけれども、私の信心の値打ちはその辺にあるのじゃないかとこう思うのです。まぁだまぁだ桜の花の信心の雰囲気の方が強いですけれども、それがいうなら立派な信心、いうなら梅の花の信心が、段々出来てきた。
 いやそのう梅の花の信心どのような場合でも、じっと耐えられる辛抱できれるね、だけではなくてそこにまぁいうなら鋭い自己反省とでも申しましょうね。私は昨日いわゆる教会の御大祭の後に、久留米の東町教会の先生のお話を聞かせて頂いたんですけれども、そのお話の中から聞かしてもらって、共鳴したお話があったんです。皆さんもご承知でしょうが、すばらぎ劇団というあのう劇団が田舎にも回ってまいりますね。あのあれは一灯園という宗教団体ですよね。
 その一灯園の西田天光という斎主の方ですよね。いわゆる長の方ですが。非常に有名なかたです。その方がそのう鳥取県か何処かに講演に行かれた。それは有名なその話ですから、それから丁度6里位離れた所からあるあんまさん、座頭さんですね。がその天光さんのお話を頂きたいと言うて、6里の道を天光さんの講演のあっている鳥取ですか、まぁ行かれた。ところが惜しいことにもう済んだ後であった。それで天光さんの取ってある宿を訪ねて、実はこうこうでしたけれども、お話頂く事が出来ずに残念でした。
 ですから折角参りましたから、せめてね先生のまぁ肩腰でもまぁ揉ませて頂きたいと言うて申し込まれた。それを天光さんも快く受け入れらたね。天光先生の体をいわゆる揉んで差し上げられながらです、「先生今日の先生の講演、いわゆるお話のまぁ内容というかね、どういうようなお話をなさいましたか」というて聞かれたら、天光先生が揉んでもらいながらそのう答えられて、今日はね忍耐という事についてお話ししたと言われた。忍耐、耐え忍ぶとね辛抱するということなんです。
 「はぁそうですか」とその話を聞きながら、その按摩さんが天光さんに言った事はね、「先生私はね、私はあのう人にどれほど忍耐をさせておるだろうか」と。「どれほど自分が人に辛抱させておるでだろうか」と。思うたらねとにかくそこには何んにもありません。辛抱することがありませんと言われた。揉んでもらいよった天光さんがびっくりして起き上がってきてね。いわゆる素晴らしい。いうならばむしろその按摩さんの手を取って有り難い事を聞かせてもろうたと。
 まぁ言わんばかりの風にまぁ言われたという話を聞いたんですけどね。辛抱せにゃ辛抱せにゃ。辛抱しきれんさぁそこば辛抱ばい。という風にまぁ教えられた訳でしょうね。みんなにまぁ忍耐と。ところがその座頭さんが言うた事はね、私には辛抱する何ものもない。辛抱するこたぁない、むしろ私のようなものがおりますとです、人にどのくらい忍耐をいわゆる人に辛抱させておるか分かりませんというて、いう所にそのまぁ天光さんを感動させたというお話ですね。
 そこには辛抱せんならんと言ったようなものすらない。ギリギリの自分というものが見極められ、そこにはもう自分がない。我がない。我が自分があるから、あれがあぁだから自分が堪えてさえおきゃ、自分がグウグウ堪えてさせおけばとこういう事になる。2代金光様四神様もそこんところを、辛抱の棒は折れるとね、もう辛抱が出来んとこれ以上は耐えられないということに結果はなるということ。そこで辛抱せんですむあり方。それには自分が我を無くさなければならないということ。
 それの我を無くする前提としてです、自分自身をよく分かるということ。自分が分かるということ。それはどういう事かというと、本当に自分のようなものがおる為に人にどのくらい辛抱させておるか分からん。自分な子供の為に自分が辛抱しとるごと思うとるばってん、子供は親父の為にどのくらいそれを、親父の例えて言うならば傲慢というか、わがままを辛抱しておるか分からないという。使用人に対してです、本当にもう今時あんましやかましゅ言うたらすぐ出て行くから。
 もうやかましゅも言われんと言うて、亭主は辛抱しとるごたるけれどもです、のんならそこに従業員雇われておる者は、そこの主人そこの親父に対してどのくらい、言いたいことも言わずに辛抱しておる事があるやら分からん事がある事を知らなきゃいけんと言う事。そこにはもう我慢というものがなくなるね。我慢我力じゃいかん。我慢我力は折れる。辛抱の棒は折れるとね。自分をいよいよ見極めた姿なあのです。
昨日そういう話を頂かせてもろうてです、なら私は思う。はぁ私のね信心は桜の花のような信心。それをまぁある意味あいにおいて泣く泣く辛抱しいしいに、辛抱し抜かせて頂きよったら、この頃ではその辛抱がいわばせんですむようになって来た事の事実を、その話を聞きながら自分でも思うた。言葉は違うけれども、自分いうものが分からせて頂くところにですね、言うならば桜の花と梅の花がもう一体となっていきよるような感じ。もう梅の花でもなからなければ桜の花でもない。
 その梅の花と桜の花が一緒にいうならば、有り難い信心と立派な信心とが一つになっていわゆるいろいろ言うと完全無欠のように聞こえるけれども、そうじゃないんですけれどね、そういう完全いわば無欠の信心を目指してです、一歩一歩それに近づいていきよるということを私は感じます。みなさんの信心に欠けておるのはです、ですからやはり立派な信心なんです。先日から下田の教会の先生が、一晩泊まりで見えておられた。いわゆる合楽の信心を見に来たというような感じですけれども。
 見に来ておられるうちに、様々に教えられることがいや教えられるじゃない、いやここで有り難いと、有り難いというその雰囲気に触れられて、翌日帰られる時には、もうそれこそ大変な感激をもって喜びを持って帰られたね。ここでいう立派な信心ではないけれども、いうならば有り難いという信心の雰囲気の中におられる間に、段々その事がおかげを頂かれた。朝の御祈念はもうそのうまぁ頂点に達するほどに感動された。皆さんのもう御祈念の朝の御祈念の雰囲気だけでも。
 体がどうかこのうしびれるような感動をうけたと言うておられる。しかももう70にもなるおじいさんがね、それこそ青年のような若々しいと思われるような求道心とでも申しましょうかね、いよいよ道を求めてやまんそういう心がそれをキャッチにしたでしょうけれども、昨日御礼の手紙がきておる。それにはね。「どうぞ先生。もう一人あなたの弟子が増えたと思うてよろしくお願いします」と書いてある。70になる先生ですよ。40年間も先生の、いうならお取次者としての経験を持った先生がですよ。
 私の様ないうならば若い者に対してですね、「先生あなたにもう一人弟子が増えたと思うてよろしく教導願いします」とこう言うておられる。昨日みんなも善導寺から帰られてここに御礼に見えられた方達に私が手紙を見せるんです。この手紙の中に一言殺し文句でお言おうか、素晴らしいことを書いてあるが分かるか、というてみんなに読ませたんですよね。もうそのものズバリと答えられる方もありました。けれどもまぁ枝葉の所を言う方もいくらもありました。その中にねこういう事が書いてあるんですよ。
 合楽の御広前にまぁ「丸一日間おかげを頂かせて頂いておるうちに感じた事はですね、合楽の御広前はね神様が助かってござる御広前」こう言うておられます。神様が助かってござる御広前。信者が助かっておるという御広前、神様が助かっておるという御広前だという。私はそこんとこを頂いた時に素晴らしい言葉だと思った。ご比礼が輝いておる教会はですね、確かに神様が助かってござる教会ですよ。何十年経ってもいわば信者がそのう助からないというところはね、第一神様が助かってござらんとですよ。
 その教会では。神様が助かってござる御広前とそれを感じたとこういう、それはどういう事なんでしょうか皆さん。神様が助かってござる。神も助かり氏子も立ち行くとこう仰っておられますね。神様が助かって先ず下さらねばですね、氏子の立ち行きはないのですよ。本当の意味合いにおいての。そんなら神様が助かるということはどういう事でしょうか。神が助かってござるという事。いうならば神様がもう安心してござるという事なんですね。神様がなら合楽の教会教会長であるこの大坪総一郎という人間。
 大坪総一郎という氏子、この氏子はもう大丈夫だと安心して下されるのです。神様が。だから助かっておるのです。例えば私の信心、どういう私がどういうおかげを頂きましても、私の信心に桜の花的のものだけであったなら、これがもう今こげんおかげを頂いておるけれども、いつ散るか分からんと親に安心を与えきらん。親が助かるという事は出来ないでしょう。ところが大坪総一郎という氏子は桜の花のような男だけれども、段々おかげを頂いていくうちに、信心辛抱梅の花の辛抱が段々出来てきて。
 その辛抱も最近ではです、辛抱せんですむ信心、いうなら梅の花と桜の花が一つになって、渾然として来た事をです、感じられる時に神様が安心して下さる。いわゆる神様が喜んで下さるというか安心して下さる。いわゆるそこに神の助かりがある。それもこれで良いという事じゃないのですけれども、そういう雰囲気が現在の私の信心の中に、出来てきておるところに神様が助かって下さておるという風に、小笠原先生をしてそういう風に感じさせたのだろうと私は思うのですね。
 そこでほなこれからはです、神様が助かってござる御広前なのですから、これから氏子の立ち行くおかげになってこなければならない。そこに今後の合楽教会のいよいよのご比礼というのは懸けられておるのであり、またあるのです。神様が助かる。そしてここに氏子が立ち行くというおかげ。そこで氏子私共いわゆる皆さん、立ち行く為のおかげを頂く為に、どうでも神様に安心してもらえれる氏子にお取り立てを頂かなければいけないでしょうが。もう安心じゃと。あの氏子は大丈夫だと。
 神様からね認められるというか、安心して貰えれる所に、神の助かりがある訳です。そこに例えばこの氏子になら幾らおかげをやっても、もう動かない大丈夫だという事になって来るんです。そこで皆さんがここで本気で頂かなければならない事は、まぁいうならばです良い悪いを持った集まりですから、皆さんも大体において桜の花の信心が合楽には多いという事、いわゆる有り難い雰囲気を持っておるけれども立派でないという事。そこでその立派な信心を目指させてもらう、梅の花の信心を目指させて貰う。
 そこに梅の花と桜の花が混然一体となっての信心の雰囲気が、皆さんの家庭の上にもね、それぞれの職場の上にも現れて来る様なおかげ。なるほどあの人は金光様の信心をしござるから、成程違うと合点される様な信心がです、立派な信心が皆さんの信心に伴うた時にです、私は神様の助かりね。そこに私共の立ち行くおかげが約束されると思うのです。私はここでは桜の花の信心がいけんと仰っておるのじゃないです。いけんとでも仰られたら私共の信心は初めから詰まらなかった訳です。
 けれども桜の花の信心により梅の花の信心をせよ。それは長う散らん為に。けれども私共はまぁいうならば生まれつき、桜の花的なものを頂いてきた。根が商売人ですから何とは無しに華やいだ華やかなやはり信心に傾いてしまった。そこに私のおかげを落とす元があった。いわゆるそこに散らなければならない元があった。裸一貫で引き上げなければならない理由がそこにあった。そこから私が今までの信心は間違っとして、梅の花の信心を一生懸命目指した。
 そこから梅の花と桜の花が混然と段々して来た様な感じなんですね。その信心辛抱しておる事が有り難いというだけではなくて。辛抱せんでもそれが済む様なおかげに段々なってきたというところにです、まぁ今の合楽の信心のこれからのなんというんでしょうかね、ご比礼が感じられます。私共はそれをいよいよ目指させて頂くところにです、いよいよ合楽のおかげはこれからいよいよ末広のおかげになっていくだろうと思われます。そこでなら皆さんの信心においても同じ事が言えるのです。
 どうぞ神様に安心して貰えれる私共にならせて頂かなければならない。それを今日は私は梅の花の信心私共に欠けておるもの。そういう風に今日は聞いて頂きましたですね。どうぞ梅の花も桜の花の信心と梅の花の信心が一体になるね、梅の香りを桜に持たせしだれ柳に咲かせたいでありますね。もう一本の木の中から梅もあれば柳もあるね、同時に桜もあるという一体混然としての私は信心、いわゆる立派な信心と有り難いという信心が一つになった信心。そういう信心を目指したいと思うですね。
   どうぞ。